些細なことで、たいしたことじゃないと思うのに、1日中泣き止めなくなり、自分を立て直せなくなりました。
泣き止めなくなった、たいしたことのない出来事
きっかけは、親にちょっと聞きたいことがあったのですが、全然怒るようなことでもなんでもないと思うのですが、電話先の父親はとても嬉しそうとは聞こえない明らかに不機嫌そうな大きな声で喋っていました。怒鳴るほどひどいもんじゃないのですが、声を荒げていました。酒が入っていたからかもしれませんが。
私は仕事中だったのですぐに電話を切りました。通話履歴を確認したらたった31秒でした。
たった31秒。母親の困った声からの、父親の吠える声。内容は本当に深刻なことでも揉めるようなことでも、たいしたことではありません。31秒のことなんて気にせず、さっきまでやっていた仕事の続きをやればいいだけなのに、できない。
あ〜そうだ、こうやって、「聞いてくれない」「会話のやりとりにならない」、だから私はずっとこの人とうまくいかない感覚があるのだ、というのを思い出し。にこやかに会話ができる、雑談を笑いながらできる仲の良さそうな家族に憧れを抱いていて、会話してる風の家族になれるよう父親の興味がありそうなことを話題に出していたんだ、家族ごっこという茶番を演じていたのだ。ばかばかしい。と改めて認識して、涙が止まりませんでした。
親を敬っているのではなく服従?
私は「親を敬うもの」と思っているから言い返せない、何もできないことが、尊敬するべきというより「服従」のように聞こえると、カウンセラーさんに言われて、本当にそうだなと思いました。
歯向かえない、聞いてもらえない、会話してもらえない、向こうが声を荒げるからもうダメだ。この状況から離れたい、といった無力感、絶望感です。
信じている前提は何のためにあるのか
「親を敬うもの」「服従」この前提を私は何のために信じているのか?カウンセラーさんに問われました。
家族が分解してしまって、庇護を受けられなくなることを恐れていたのか、家族からのベネフィットを得られなくならないように、かなと思いました。自分が「かわいそうな存在」にならないためかなと。
もう幼い子供ではない私は、自分のお金で生きているわけですし、別に恐れる必要もないわけで。
ちょうど、この出来事の後に読んだ本に、そうなのかなと思うことが書いてありました。
親にいちいち確認取る人って、どこかで「困ったときには親に助けてもらいたい」っていう意識があるんじゃないかな?だって、何があっても親の世話にならないと思っていれば、いちいち親の許可を取る必要なんてないはずだから。
親には絶対逆らっちゃいけないという刷り込みがあるのかもしれないけど、いずれにしても親の許可を取る必要はない
嫌ならやめてもいいんだよ 斉藤一人著
今回の私の場合、私が何かすることに対する親の確認をとっていたわけではないのですが、確かに、親に逆らっちゃいけないという刷り込みはあり、いつかどこかで困ったときに(私が入院して誰も世話してくれる人がいないとか自分で入院費が払えないとか)助けてもらおうという意識はありました。
そっか、いざというときに頼ろうと思ってる下心があるから、服従してるのか、と納得。
傷ついたことを相手に伝えるべきか?
今回のたいしたことのないたった31秒の通話で、一方的に声を荒げられることに私はダメージを受けました。もう電話なんてしたくねぇと思っています。でも何かの用事で電話しないといけない場面があるかもしれません。
相手に言っても変わらないかもしれないけど、声を荒げられるのはやめてほしいと伝えた方がいいのか?わかってもらえないだろうから、傷つくだけだから、言わない方がいいのか?カウンセラーさんに聞いてみました。
カウンセラーさんは、良くある質問です、と答えてくださいました。
相手に言っても、期待するような反応は返ってこないであろう、という想定のもと、過去の(つらい体験の)再現にならないために、その想定のもとで言ってみるのには、今まで言えなかったことが言えている自分にフォーカスするなら意味がある、と教えていただきました。
とても納得がいきました。わかってほしい、変わってほしい、という思いで言うのではなく、今まで我慢して言わなかったことを言う自分、行動をしてみた自分OKとするなら意味があると。
まだ考えるだけでしんどく、行動には起こせていませんが、ありがとうございました。