たびたび、生活に支障をきたすほど落ち込んだり、涙が止まらなくなることがある自分ですが、ときには泣かなくて生活できる日が数日続くこともあります。それでも落ち込みや絶望感はうっすらまだあるのですが、この自分は「甘え」なのか、なぜ日常生活に困っているのか、分からなくなってきます。
ただのこじらせ中年なのか、なぜグルグル同じところをしているのか、臨床心理士さんに聞いてみました。
病名も障害名もないから落ち込みは甘えなのでは
自分は慢性的にうっすら濡れ雑巾をかぶっているような状態ではありますが、泣かずに日常が遅れると調子が良いと言えます。PMSのタイミングでないのもあるかもしれません。
なぜ私は困っているのか分からなくなっています。私が落ち込んだりしんどいのは、言うに値しないのかと。
もし自分が明日の生活にも困る状態だったら必死に目の前にあることをやるでしょうし、命の危険にある環境ならば生き延びることで必死で、落ち込んでいる暇もなかったはずです。やはり、現実には何も問題はないのに、いつまでも頭がいっぱいいっぱいで、一人で勝手にグルグルして現状を変えられないのは、私の執着であり、愛着形成の問題をいつまでも引きずっている、ただの「こじらせた中年」なのかなと。それってイタイなと。
他人が決めたルール
ポジティブで明るい人に接すると、私の落ち込みやネガティブさを見て「気の持ちよう」「考えた方次第」「普通にしたらいいのに」などと言われることがあります。ごもっとも、だと思います。正論です。
それができないからウンコなわけで、このいつまでも落ち込み同じことを言っている自分は、人と話したらろくなことを発しないから、あまり人と関わらない方がいい、となります。
心理士さんと話していて、心理士さんは専門家だから、何度私が同じところをグルグルしていても「またそれ?」とは言わずに対応してくれますが(仕事だから)、それ以外の方には「また?」「まだそれ言ってんの?」となってしまうので。
障害や病名がある人に対しては、人々は「また?」とは言わず、“そういうものだ”と受け流してもらえるでしょうから、病気でも障害でもないただの「こじらせた中年」はどうしたもんかなと。
最近読んだ『普通という異常 健常発達という病』という本で、発達障害以外の人はフツウであり健常者と言われますが、その人たちを「健常発達」と仮定している話です。私はものすごく健常発達なのか?と訳が分からなくなりました。
障害とか病気とか決めているのは健常発達の人たちが決めた指標に基づいてであり、病いってなんなんですかね?とカウンセラーさんに言うと、「もちろん本人へのヒアリング用紙記入などもありますが、基本的には他人が決めた診断ですね」少し笑いながら「世の中ってそういうものですよね」とおっしゃいました。
カウンセラーさんの言葉
それらが“他人が決めたものだ”とすると、自分の状態「こじらせた中年」はどう考えられるでしょうか?
診断名は「自分のために活用する情報」です。自分が当てはまると思うグレーゾーンの状態であっても、自分はこうだから何ができるか、と考えて自分を緩めてあげるのです。一貫していなくてもいい。
意味がないのに繰り返すのはなぜか
繰り返し落ち込むのは、何もないところで、ただ自分を注視し続けて、ウンコな自分をひたすら捏ねくり回しているだけのようで、馬鹿馬鹿しく、情けない気持ちです。
同じところに繰り返し戻ってくる、いつまでも同じことを言っている自分にうんざりする、こんなことを言っていても意味がない(建設的でない)のに、と思っています。
が、心理士さんの説明では、心理学的には言っている言葉には意味があり事情があるから、嫌なのに一歩出ようとせずまた戻ってくるのは、手放せない何かがあると考えられる(執着)。痛いのにしがみつきたいものがある。と考えるそうです。
カウンセラーさんの言葉
なんだか訳が分からなくなっているとき、自分を見失っているときには、快・不快、五感に目を向けてみるといい。
自分の快に気付いて、できるだけ自分の周りを好きなもので囲まれて過ごせるようにしていく。
まとめ
不快は言えますけど、自分の快を言語化するのは得意ではありません。それだけ不感症になっているのは自覚しています。
グレーゾーンの活用、一貫していなくてもいい、自分をゆるめる、苦手な部分だなと思いました。一貫性へのこだわり、ゼロヒャクの思考の強さを認識しています。
- 診断も他人の定めたルールで他人が決めるもので「世の中ってそういうもの」
- 病名は「自分のために活用する情報」
- 自分を緩める。一貫していなくてもいい。
- 言っている言葉には意味があり事情がある
- 快・不快、五感に目を向ける