良かれと思って誰かのためには「やさしい暴力」カウンセリング5回目

優しい暴力 カウンセリングを受ける

自分を変えたいと思いながらも自己卑下が止められず、自分を嫌いながら何とか前に進もうとするので、疲労感と焦燥感でまいっていました。1年間お世話になったコーチに優しく「ネガティブ中毒」と教えてもらい、親しい人にもカウンセリングを受けた方が良いと助言をいただき、心理療法士さんに1ヶ月ほどお世話になっています。

週1回受けていた前回のカウンセリングから10日後に、5回目のカウンセリングを受けました。

やさしい暴力

私が感じている父親への難しさについてカウンセラーさんに質問されました。それは、以前私が父について、他人に対してはいろいろしてあげて良い人に見えるけど、「裸の王様」になっているのではないか、と言ったことがあったからです。

父親が、周囲の人のために、家族や先祖のために、と大義名分を掲げて何かをすると、外から見ると「良いこと」をしているように見えます。私や母、または何かされる立場の人は嬉しくなかったり「そんなことしなくていいのに…」と思っていても強く言えない、違和感を感じても異議を唱えることができない、そんな「良かれと思って」な父の行動を「やさしい暴力」とカウンセラーさんに教えてもらいました。

まぁ、母は「そんなことしなくていい」というようなことを伝えても、父が聞かないので、諦めて我慢しているように見えるのですが。子の立場の私からは、父が言い出したら絶対やる、勝手に決めてやる、そんなイメージなので、母の意見や気持ちを聞いたりするのは見たことがなく、話し合っている姿は記憶にありません。でも、父がやっていることは表向きには「良いこと」なので、他人は称賛するでしょうし、誰も表立って悪く言うようなことはないでしょう。

私の中では父を見ていて、お金を出す人=エライ、父=絶対的権力、というのが確立した訳ですが、それはカウンセラーさんの言う「やさしい暴力」によって作られた概念なのかもしれません。

子供は親の部分を取り入れる

難しさを感じている父親と似た態度や行動を取り入れていたり、人格者として尊敬する母の良い部分は取り入れず、母が自分を卑下する部分を私が取り入れていることに気づきました。

カウンセラーさんは、子どもが嫌だったと思いながらも、親の嫌な部分を取り入れて振る舞ってしまうことがある、それは「子どもが傷つきを乗り越えようとする行動」としてあるのだと教えてくださいました。暴力を受けて育った人が、自分も大人になって誰かに暴力を振るってしまうように。

それはどうやったらやめられるんでしょうかね?だってうんざりするほど嫌だったんですし、やめたいです。

なぜ「そうじゃないといけない」と思っているのか?

そして、父の存在に対して難しさを感じながら、同時に、私が持っている社会であるべき姿(価値観)=父親像を強く持っている。なぜそうじゃないといけないと思っているのか?と、カウンセラーさんに聞かれました。

私が社会人としてあるべき姿と思ってきたのは、やりたいことがあってそのために学業を修め、立派な職歴があって、ちゃんと稼いでいる状態、または、学歴はなくてもチャレンジを恐れず何かを成し遂げている人です。私から見ると父は学歴・職歴・稼ぎがあり、社会的地位の高い人です。私はたいした経歴がなく、たいしたお金も稼げてない、恥ずかしく情けなく思っている状態です。

なぜ人格としては違和感をおぼえる部分がありながら、あるべき姿に父親の存在感が大きくあるのか?いまだに自分の答えが分からない状態です。

「気にしなければいいだけ」ができない

以前、よく落ち込む私に、優しい周りの人が「考え方次第」「気の持ちよう」とアドバイスをしてくれたことがあります。これが何年もたった今でもできない私は、そんな簡単なこと、当然なことができない、と、堂々巡りで苦しく感じています。

気にしなければいいだけ、と言えるただの思い込みの「あるべき姿像」ですが、その像に程遠い自分だけど今の自分でOK、と思えるようになれればいいのだろうなーとは考えるものの、まだそうは思えず、自分の内部で恥を感じ、拒否反応が起きる感じです。

自分のことを話そうとすると情けなさや嫌悪感が邪魔をして、全然泣くようなことじゃないのに、涙が出てしまいます。

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